父亡きあと、あらためて自分の生い立ちに出会いに行ったり
残された遺産の面倒くさい手続きに追われている日々。
そんな中で、時々、朝の支度をしている時に、お棺に寝ている
父の寝顔がふと思い出される時がある。
(顔の周りはピンクや黄色の鮮やかな花で覆われて、花びらで天使のように散りばめた父の寝顔は超キュートに仕上がった。)
とても穏やかな寝顔を思い出す。
父から受け継いだ無形資産は、現在の私自身を生成している。
例えば子供のころ、食卓に着く際に誤って陶磁器の食器をテーブルから落として割ってしまったことがある。
「叱られる!」
心の中で一瞬怯えたけれど、父の反応は予想と違った。
「割れるものなんだから。」と、妙にあっさり言い放った。
(へ??) ⇦ 拍子抜け
そんな些細な日常の、ましてや幼少期に体験したこの一言を未だに鮮明に覚えているなんて。
「形あるものは壊れる」と、年を重ねるほどに学んだ私は、有形物=人間関係や住まいや所有物にも応用した。
一度築いたものを、関係を壊さないように壊さないようにと、そこに神経が集中して視野が狭くなると
逆に境界が狭くなる。
だから大切に扱うようにもなるし、時には壊した方が良い選択肢もある。
だからひとつの物事に固執(執着)しないようにしている。
その方が結果、受け取れることや救いは多いと学んだ。
分かりやすい例でいうと、中村哲医師が用水路をブルドーザーで壊したことや。
自分はそんなたいそうなことはしていないけれど、
先を鑑み、時には自ら壊したほうが良い選択の時がある。
父は自由に我が道を生きたし、今では珍しくないことを、自分に正直に生きていたなと実感する。
子供は多々迷惑に思ったりもした時代があったけれど、それはたとえ親子といえど、個の人生が
あったのだと大人になるほど理解できる。
人は泡のように消え、無になるのだ。
記憶を残して。
8月3日は四十九日。