日本ではちょっとどうかと思われるような、なんとも鷹揚(おうよう)な魚の絵ですが(笑)、夢で見た『抑圧からの逃避場ー海の中で魚の群れがサラサラ廻る場面』をラフに描いて太陽の光を充てた。
最初は2012年辺りのブログにて言葉で描写を説明していました。
数年前にラフに描いてからこの魚を綺麗に描き直そうと思ったのだけど、見ているうちにこの様々な形の魚に愛着が湧き、直したら綺麗に見えるけどそれじゃ多様性も『表層的に美しい』ルッキズム&一般的な🐟の描写になっちゃうなって。
人間が海の中で息をするには酸素が必要。
だからブログタイトルは酸素のことにしようと決めたのだけど、記号化するのを躊躇(ためら)って、ここはoxygenと表記した。
記号化することで必要なのは酸素、に限定されてしまうけれど、抑圧からの逃避場に必要なのは、心身共に息苦しさを感じないこと。
それと私の海の中の表現はライブハウスの事や音楽関係ではないので、他者に妄想同化扇動されませんように。
(音楽やってる人やどんな職業の人でも『男同士の絆』の世界はあるのだろう。
だけど私は犠牲になりたくないし、身を捧げるのは嫌だし、引き立て役もやらない。
今日、予約していた本が入荷したので引き取りに行ってきた。
先だって購入した『心的外傷と回復』は読んでいる途中だけど、こちらを優先して読みたいと思った。
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『男同士の絆』イギリス文学とホモソーシャルな欲望 イヴ・K・セジウィック 著
書評にも書かれているとおり、一部抜粋します。
『しかしフェミニズム系から出発しているセジウィックの慧眼は、女性をパートナーとする男性のホモソーシャル関係が、実は男性間の絆を引き裂きかねない女性を嫌悪し排除して成立し、政治的欲望に貫かれていることを指摘する(だからこそホモソーシャル関係に男性のそれが選ばれた)。本書は男性優位体制批判の本でもある。』
私は『絆』という言葉が苦手で、その理由は『縛られる』ように感じるからです。
親愛の表現で使う人が殆どだとは思うので、あくまで私の主観です。
抑圧を受けていた経験からか、『縛られる、釣り糸で釣られる、網に掛かる』ような意味が、心身をコントロールされるようで苦手なのです。
絆のためであれば、人を無価値化しても搾取しても人権を踏んでも良いとはならないのだけれど。
人は思い入れが強いほど、目的達成のために人を軽視しがちではないかしら。
この先は尊厳の在処について。
私が他者を借り物にして自分を評価されようとする人を心底嫌うのにも理由があるの。
他者の表現物を、まるでアクセサリーや洋服や靴を履くみたいに、都合の良い部分だけ自分を着飾る道具にして自分の表現にする人を軽蔑する。
他人に憑依して人権侵害したり、代役気取りを演じたりと、自分を生きない人は言葉だけ、表現だけ借用してイメージを自分に刷り込む。
中身は違うのに。
どうか「自分」を生きてください。
自分を生きないと、全体主義に搾取され無自覚にも誰かを加害するよ。
そして何より自分自身が自分の尊厳を軽視するようになるから。
個の尊厳を踏まないで、その人自身にしか表現できない人生のオリジナルを構築していけばいいじゃない?
その方が面白くない?
一人ひとり違う人間だという意味がある。
それが『極彩色の命』なのではないかしら?